翻訳と辞書
Words near each other
・ 弘通杯国家囲棋隊勝抜戦
・ 弘道
・ 弘道 (唐)
・ 弘道 (足立区)
・ 弘道おにいさん
・ 弘道おにいさんとあそぼ!夢のビッグパレード ぐ〜チョコランタンとゆかいな仲間たち
・ 弘道仮乗降場
・ 弘道会
・ 弘道小学校
・ 弘道館
弘道館 (佐賀藩)
・ 弘道館 (曖昧さ回避)
・ 弘道館 (皆川淇園)
・ 弘道館公園
・ 弘道館戦争
・ 弘道駅
・ 弘遠
・ 弘長
・ 弘長寺
・ 弘長新制


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

弘道館 (佐賀藩) : ウィキペディア日本語版
弘道館 (佐賀藩)[こうどうかん]
弘道館(こうどうかん)は、江戸時代中期に日本佐賀藩が設立した藩校である。
== 沿革 ==

=== 経緯 ===
1781年(天明元年)、佐賀藩第8代藩主鍋島治茂古賀精里儒学者)に命じ、佐賀城に近い松原小路に藩校「弘道館」を設立した。
設立にあたり、熊本藩の藩校「時習館」をモデルとした。鍋島治茂は石井鶴山(儒学者)を熊本藩に派遣し、成功した改革と藩校の関係を学ばせた改革の秘訣は「改革の担い手となる人材の育成」にあった。古賀精里は弘道館の初代校長格、石井鶴山は教頭格となった。

1806年(文化3年)、古賀精里の子である古賀穀堂は意見書「学政管見」を提出した。この意見書で「教育予算は削らず、逆に三倍に増やすべき」などと提言し教育の重要性を訴えた。これは江戸時代の教育論としては現在も評価が高い。
1830年(天保元年)、第10代藩主鍋島直正は藩主になると同時に弘道館の充実を指示した。
1840年(天保11年)、鍋島直正は北堀端に移転拡充し、蒙養舎を設立した。蒙養舎では15歳以下の藩士の子弟を教育した。古賀穀堂が直正の教育係を務めた。
穀堂が「学政管見」で訴えた政策はほぼそのまま実施されたと言える。例えば170だった教育予算は、1840年(天保11年)には1,000石に増加していた〔改革ことはじめ(15)教育は聖域 ~人材育成 最大の遺産に~ (佐賀新聞社、2012年4月3日閲覧)〕。
弘道館の教育理念は旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)と勧興小学校(現・佐賀市立勧興小学校)に受け継がれた。勧興小学校は年少者が学んでいた蒙養舎を継承して開校した。その校舎の2階には現在も資料室「懐古堂」がある。旧制佐賀中学校は弘道館跡に開校した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「弘道館 (佐賀藩)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.